PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

「差」があることは悪いことなのか?


こんにちは。
インデックス投資アドバイザーの カン・チュンド です。

もう、25年以上前の話なのですが、
高校2年の夏休みが明けてしばらく経ったとき、
友だち同士で、偶然、「親の話」になりました。

「自分の親が学生だったころの話って聞いたことある?」
みたいな類の話題だったと思います。

そんな話の中で誰かが、
「そういえば、うちの父親は北海道の○○大学でさあ・・」
と言うのを耳にしました。

わたしは
< えー、お父さんの世代で大学まで出ているんだ!>
と心底驚いたのですが、

しかし、それを口に出すことは(なんとなく)憚られたので
黙って聞いていると、

他の級友も「うちの親は△△大学で・・」
「あっ、うちは□□大学」
「えっ、じゃあ同じだね」
みたいな会話を始めたのです。

わたしは驚きと共に焦りを感じ始めました..。
なぜなら、わたしの両親は
共に中学しか出ていなかったからです。

今となっては、
「そんなことどうでもいいじゃん」と思えるのですが、

当時感じた、
歴然とした【差】のようなもの

それは、家柄、育ちの違い、環境の違い、
さまざまが入り混じったものですが、
その【差異】を、
「劣等感」として感じている自分がいました。

(わたし自身、学校を中途でやめているので、
20代の頃は、学歴に対するコンプレックスがありました..)

今はたまたま「学歴」というトピックを挙げましたが、
いつの世も【差異】は歴然と存在します。

住んでいる場所。住んでいる家。
乗っているクルマ。着ている服。

働いている会社。
もらっている給料。
(同じ会社でも、
働いている「部署」で給与の差がある..)

目が悪いか、悪くないか
背が低いか、高いか
太っているか、痩せているか

今日、食べる昼ごはんは?
飲んでいるお酒は?
持っているパソコン、ケイタイは?
食器は? テレビゲームは? 電気ポットは?

娘さんが通っている学校
お孫さんが通っている学校

保険の種類から、
普段使っているスーパー、お墓の有無まで、
ほんとうに世の中は【差異】だらけです・・。

私たちは目に見えるもの、
目に見えないもの両方で、
いつも【差】を感じ、【差】を意識しています。

そして、
「差」の存在から湧き上がる劣等感。
「差」の存在から湧き上がる優越感。

「差」の存在から湧き上がる反骨心。
「差」の存在から湧き上がる諦めなど、

私たちは【差異】によって、
さまざまな「感情」を抱く生き物です。

わたしの場合、特に
ファイナンシャルプランナーとして独立してから、
【差】を意識する場面が増えました。

会社員の方に比べると、
収入も安定度も社会的な地位も、
すべて低くなってしまったからです。
(いや、まあ、自分で選んだ道なのですが・・汗)

それらの【差】をひしひしと感じながら、
それをバネに今までやってきた部分もあります。

ところで、
「差」の存在からの劣等感。
「差」の存在からの優越感。

「差」の存在からの反骨心。
「差」の存在からの諦めなど。

これらの感情は、私たちが生きていく上で、
好ましからざるものなのでしょうか?
(あなたはどう思いますか?)

【差】があることは、
社会にとって良くないことなのでしょうか?

わたしは、
【差】があることがよくないのではなく、

【差】があることが隠蔽され、かつ、
その【差】が・変化することを・期待させない社会が
良くないと思うのです。

つまり、
表面上は、結果平等を謳いながら、
(実は)差異が固定化している社会がよくないと考えます。
(・・現状の日本がそうなりつつあるのでは..)

シンプルに、かつ、物理的に考えてみましょう。
風は、暖かい空気と、冷たい空気という、
温度の【差】がなければ発生しません。

高いところ、低いところという【差】があってはじめて、
モノは高い場所から低い場所に移動します。

◆【差】があるからこそ、エネルギーは発生するのです。

人が生きていくうえで、
【差】が存在するのは 前提条件 です。

もし【差】が存在しなければ、どんな社会になるのか・・?
私たちは上記について、
「生きたテキスト」を持っています。

何かをしても、しなくても、
表向きは【差】が生じない社会。
(裏では人を監視する【差異】が、
 恐々と築かれていく社会。)

すなわち、共産主義と呼ばれる、
努力してもしなくても「結果」が同じ社会を
私たちは20世紀に経験しました。
(いちおうの「実験結果」は出ています..)

私たちが壮大な実験で学んだことは、
◆【結果平等】を求めすぎると、
人のポテンシャル(潜在可能性)が
損なわれてしまうということ。

しかしながら、同時に、
【差】があることは認めるけれど、
【機会の平等】が保証されていないと、
(先ほど言った)「差異が固定化する社会」になってしまいます。

何ともさじ加減が難しい..。

わたしは、ひとつの国、
あるいは地域の【経済成長】を占ううえで、
差」の存在は重要だと思います。

あなたが投資しようとする国、地域において
「差」は存在していますか?

ただ【差】が存在すれば、
それでよいというわけではありません。

「差」が存在することは、
投資のひとつの条件ですが、

もうひとつの条件は、
◆ 社会に存在する「差」を乗り越えようとする行為が、
同じ社会の中で是認されていることが必要ということです。

中国でも、インドでも、ベトナムでも、
歴然とした「差」があります。
(それは、私たちが想像もできないほどの大きさです。)

◆ しかし、その【差】を、
個人の才覚や努力によって越えようとすることが、

「フム。いいことだ。
わたしは認めるよ。」というコンセンサスが、
社会の中で必要なのです。

【差】を乗り越えようとする行為そのものが
否定されるような国では、
そもそも【長期的な経済発展】は望めません。

【差】はあるよ。
でも、その【差】は固定化されたものではないよ・・。

このように、
相反する「事実」が成立していないとダメなのです。
(思えば、高度成長期の日本はまさにそうでしたね。)

経済成長の源泉とは、シンプルに言ってしまうと、
多数の人が
【今日より明日がよくなる】と思えるかどうかです。

これから、世界の多くの国・地域で、
「差」があることを卑下せず、
生活が良くなっていくプロセスの一場面であると認識する人が、
日に日に増えてくるでしょう。

今、中東で起こっている政変も、
【差】はあるよ。
でも、その【差】は固定化されたものではないよ。

という空気を、
より多くの人が感じ始めている現象なのだと思います。

これから世界各地で起こるかもしれない
一連の民主化運動」は、
短期的にはマーケットを不安定にさせますが、

中長期的に見れば、
マーケットにとって【プラス】です。

なぜなら、
【差】を乗り越えようとする力が、
経済成長となって発露するためです

わたしはあらゆる「差」を恐れず、
自分らしく日々を暮らしていきたいと思います..。




関連記事

| 抱負・個人的に思うこと | 11:51 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT














TRACKBACK URL

http://tohshi.blog61.fc2.com/tb.php/1434-8872bdf9

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT